明治39年に東北3県(岩手、宮城、福島)は未曽有の冷害、凶作に見舞われ、明治38年末から39年頭の極寒期に、食料はなく、豪雪のため交通は途絶し、日露戦争(明治37年~38年)によって孤児となった子ども達は飢えと寒さで生存さえ危ぶまれていました。この窮状に対し全国10施設が救済のための児童の受入れを申し出ました。愛媛慈恵会は、その中の一施設でありました。
当会は明治39年5月上旬から愛媛県庁を通して東北三県に働きかけました。愛媛県が岩手県宛に送った文書(明治39年6月12日付)には「愛媛慈恵会は基本金2,000円を有し、又地方慈善家により1カ月60円乃至100円位迄の寄付金があり、此度評議員の決議により、貴県及び福島、宮城の三県に各々20名ずつの孤児収容を照会したものである(後略)」と記されています。
同年8月1日に4歳から12歳までの25名の児童を迎えました。学齢児童は松山市立第二尋常小学校(現味酒小学校)で学び、学校から帰ったら経木真田を編んで若干の収入を得るように図り、貯金をさせました。岩手県からの児童の受入によりこれまでの施設では狭くなったため、同年11月に鉄砲町から府中町(現 木屋町)安楽寺に移転しました。
明治41年以降、児童は父母親戚の家計が回復するに従って帰郷しました。60余年後、当時の児童の一人から「親身なお世話を受けたことは童心に刻まれている。ひとこと感謝の気持ちを伝えたい」との礼状が届いたというエピソードもあります。